ある小学校教諭が実際に担任を受け持ったクラスの児童に行った授業に、いじめという行為を架空の体験を通して教育するという授業があった。
その授業では児童らに対して事前に、これからする事はいじめという行為であるが、あくまでもいじめというものがどんな行為であるかを知る為にこの授業を行うものである、と伝えた。
そして授業を始める際に、まず児童に立候補を募り、いじめる側の役の児童(後を甲とする)数名と、いじめられる側の役の児童(後を乙とする)一名を、完全に本人たちの合意の上で選出した。
その後、教諭はいじめという行為をどのように再現するかについてクラスの全員に説明をした。
その内容は次の様な説明であった。
まず乙の所持品を甲が奪い取り、次に乙にはそれを取り返そうとするように指示を出した。
続けて甲には、甲の全員で協力して乙から奪い取った物品を、乙に取り返されないようにするように指示を出した。
教諭は甲乙双方にたったこれだけの指示を出して、いじめ(という行為)を再現するように指示した。
それに対して甲と乙以外の傍観者である児童たちには、教諭は何の指示も出さなかった。
そして実際にいじめ(という行為)の再現が始まった。
甲も乙も教諭の指示通りに動いた。
始まって数分間は乙の表情にも余裕があり、甲が投げまわして取り返させまいとする行動に対し、乙は笑みさえ浮かべながら追いかけていた。
しかし、しばらくすると甲の投げまわしていた物品があらぬ方向へ逸れて教室の床に落下した。
すると乙は、自分の所持品を傷つけられた事で憤慨し、甲へ向かって謝罪を要求した。
しかし甲がいつまでも謝罪をしようとしなかった為、乙は教諭に向かって甲の行動を咎めるように要求した。
しかし、教諭はこの事態を待っていたのだった。
教諭は乙の要求を無視した挙句、自らが怒鳴り、乙に対して落ちた物品を拾うように命じた。
その瞬間、怒鳴りつけられた乙は元より、傍観者の児童たちも、そして甲でさえ教諭の無慈悲な命令に、凍りついたように無言になってしまった。
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やがて乙が涙ぐみながら床に落ちている自分の物品を拾うと、教諭はすぐに穏やかな声に戻り、泣き出しそうな乙に対して心からの謝罪の言葉を述べた。
そして、いじめの再現を終わることをクラスの全員に告げて甲と乙に自分の席に戻るように促した。
クラスの児童たちの長い沈黙の後に教諭は、いじめという行為の架空の体験をする事を事前に告げていたことを話し、今目の前で行われた行為は全て、いじめという行為を再現した架空のものであったことを再度説明した。
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最後に、教諭は児童たち一人一人にこの授業の感想や気づいた点を聞いていった。
児童たちの感想は、殆どが予想だにしなかったいじめの暴力性や恐怖を表していた。
教育の現場で実際にいじめ(という行為)を再現するという事が、果たして現在許容される事なのかどうかは別とするが、この授業を実際に受けた児童たちの経験は、十数年の時を経て成人を過ぎ(具体的には20代後半)になっても忘れる事が無く、倫理観を養う上で非常に重要な教育方法だった事は確かだ。
2012年現在のニュースでは、いじめを受けた中学生の男子生徒が、自殺の練習をさせられていたとの報道もある。
その学校の教諭たちに至っては、いじめの存在を認識していたにも関わらず、黙認していたという事実が多くの批判を浴びていた。
学校で教えられる教育というものは、決して必修教科のみに限られるものではない。
学校とは、人間としての将来をも変化させる重要な人間形成の現場である事を忘れられてはいけない。
そして学校で受けたその教育が、次世代の若人たちの将来を左右することを忘れてはいけない。
そして更にこれは、学校だけを教育の現場として捕らえがちな現代社会の、あまりにも愚かしい現実を露呈していると言えるだろう。